優しい雨 幻想水滸伝

 空は鈍色にたれ込め、今にも雨が落ちてきそうだった。
 気のせいだろうか。微かに雨の……水の匂いが溢れてきている様な気がする。
 ずっと、不思議に思っていた。
 雲はどこから来て、どこに行くんだろう、と。
 各地に柔らかい恵みを与え、その姿を変えながら移動しつつ、その終着はどこにあるのだろうと。
 上を見上げ、その灰色に煙った空を眺めていると小さな水滴を肌に感じる。
 ――降って来た。
 熱く感じる自分の肌に、僅かな雨粒が心地よい。

 雨が与えてくれる柔らかいその恵み。
 緑が、動物達が、そして、人々が受ける恩恵の雨。
 その雨は分け隔てることなく、この大地に生きる全ての生命に柔らかく降り注ぐ。
 自分は、少しでもそれに近付けるだろうか。
 誰かに、優しい何かを与えることが出来るんだろうか。

 何もかも無くしてしまった――今でも。

 守りたかった。

 本当に好きだったこの国を。
 愛していた街を。
 そして……人々を。


  + + +


「俺達に任せておいて下さい! 絶対に守りきってみせますよ。だから、そんな顔しないで下さいって」
「――我々は、あなたと共にあれて幸せでしたよ」
「そんな、縁起でもねぇ事言うなよ。でした、じゃなくて、です、だろうが」
 曇った顔をしている、俺達の上に立つ御方。俺達が、自分の信念を賭けられると思った、まだ幼さの残る少年。その人の、辛そうな顔は見たくないから、極力明るく振る舞おうとした俺を、呆れたような、それでいて珍しくも優しい表情で見る親友。
「ああ。そうだな、悪かった」
 その言葉に深く頷き、もう一度、目の前に立つハイランド王国の皇王に向き直った。
「行って参ります」
「……気を付けて。君たちの……武運を祈る」
「では、これで」
 隣に立つクルガンと二人、深い礼を取り、その場を離れる。

「……守ってみせる。ここを」
 この思いだけは、誰よりも強いと断言できる。
 守りたい。
 失いたくない。
 この場所だけは、絶対に守る。
 そんな俺に。クルガンが静かな声を降らせた。
「おまえのその気持ちは、私だけじゃない。ジョウイ殿も、兵士達も、この街の人々も、みんなが分かっている。一人で背負うな」
 背が高いこいつは、真っ直ぐ前を向いていると表情が分かりにくい。でも、その気持ちは、俺と一緒なんだろうと、そう思うだけで心の中に暖かい何かが生まれてくるのが分かった。
 一人じゃない。
 俺だけじゃない。
 ここを守りたいと、この国を好きだと、そう思っているのは俺だけじゃないんだ。

 この先に待つのが優しい道じゃないことは重々分かっている。
 何度か戦場で対峙して、その実力の程は十分に知れている奴らと、この剣を交える時。
 ――俺は一体、何を思うんだろうか。
 静かな興奮と共に、腰の剣を握りしめた。



「……シード…」
 いつもの硬質な響きすら感じられないほど、弱く聞こえるその声。
 名前を呼ばれ、返事をしようとしても、唇を動かす事すら難しかった。普段、何も考えずにしている簡単な動きさえも、実は労力という物を必要としているのだと、初めて知る。
 全身を襲う喪失感を振り切り、何とか言葉を紡ごうと、僅かに残る体中の力を総動員した。
「……クルガン…俺は楽しかったぜ……」
 クルガンが、僅かに身じろぎするのが分かる。
「この国の未来を思い、存分に戦った……」
 そうだ。出来る限りのことはした。
 ――だが。
 やることはやったという気持ちの中、それでも沸き上がる思いは抑えられない。
 圧倒的な力。
 自分の最高の力を出し切ったと断言できる戦いでも、相手には及ばなかった。
 人数の差はあれど……もし、一騎打ちを望んだとしても、それは変わらなかったかもしれない。もう、知らず溢れていた涙を、拭う力すら残っていない。
「……ああ………そうだな……。この国と命運を共にするのも良かろう……」
 クルガンの声に、小さく頷いた。もう、声を出す事すら叶わなかったから。
 そのまま、頭のどこかから聞こえてくる声に従い、瞳を閉じる。
『もう、いいよ。充分やった。後はゆっくり休めよ』
 休む――命運―――。
 ―――――終わり――。
 おわり……?
 何が終わるんだ?
 俺の人生が? いや、この国が? この国に暮らす人々が?

 終 わ っ て た ま る か

 この国が、今までと違う名前になったとしても、この国に暮らす人々が暖かい笑顔を浮かべてられるように、まだ、するべき事があるんじゃないか?
 俺に出来ることはもうないのか?
 本当に――?

 否。
 俺にも、出来ることが、まだある。きっと、何かある。この国の為に……!

 そう思った瞬間、体の奥に小さく熱い固まりが生まれ。それは自分でも驚く程の力を以て全身を支配していく。
 次の瞬間、全ての力が萎えたと思っていたのに、口からは低い声が滑り出し、自分の物ではないように唇が動いて、唱い慣れた呪文の詠唱を終えようとしていた。
「――流水の紋章、我の声に答えよ。『母なる海』」
 最後の一節を唱え終わった途端。力が全身に流れ込み、身体が嘘のように軽くなったのを感じた。
 おそらく、隣に同じように倒れ伏しているクルガンの体も癒されているだろう。
「シード」
 驚きを含んだ親友の声。
 当たり前だろう。俺自身も驚いている。
 どこに、こんな力が残っていたのか。
 全ての魔力は放出したはずだった。そのはずだったのに。
 こうして、俺の中に、見知らぬ力が残っていたのならば。
 そうだ。きっとこの国も、同じ様に立ち直ってゆけるはず。
「俺達はまだ死ねない。この国が併合され、違う名前になったとしても、まだ出来ることはあるかもしれない。ここに暮らす人々の笑顔を守るために、何かが出来るかもしれないんだ。……なあ、そうだろ、クルガン」
 起き上がって、既に体を起こしている友の顔を見つめる。
「――行くか」
 それが返事。
 何よりも、どんな言葉よりも、その一言が深く語る。

 ――自分達に出来ることがなんなのか、今はまだ、分からないけど。

 裂けた上着を脱ぎ、鎧を脱ぎ捨てる。
 これから向かう道には、これはきっと似つかわしくないから。
 軍人としてじゃなく、この国の将軍という地位じゃなく。
 違う角度から出来ることを、探してみせる。

 崩れかけている城内を抜け、一部の者しか知らない裏口に出ると、低くたれ込めた雲が目に入った。


 雨が、来るかもしれない。




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