wish 幻想水滸伝

 「テッド、テッド!」
 バン、と大きな音を立てて部屋のドアが開かれた。そして、それに負けない大きな声。
「どうしたんだよー。俺眠いんだよ、寝かせてくれ……」
「もう、テッドってば、起きてよ。テッド!」
 少年の執拗な要請に、テッドと呼ばれた少年は不承不承起き上がった。
(ああもう、折角気持ち良く寝てたのになぁ……)
 ……と、大きな欠伸をしつつ。
 しかし、少年はそんな事も気に留めず、喜々としてある物をテッドに差し出した。
「これ、見てよ」
「――ん?なんだ、絵じゃないか」
「うん!今父さんが戻ってきて、お土産にってくれたんだ。帰りに寄った街に行商人がいて、その人から買ったんだって。僕は見た事がないから珍しいだろうって」
 そう言って父からの土産を抱え、嬉しそうに笑う。
「これ、海って言うんだろ?テッドは色んな国を旅したって言ってたよね。海も見たことある?」
 顔を覗き込むようにして尋ねてくる瞳。
「海か……。うん、ずっと昔にな」
 少年が手にした絵を眺め、テッドは頷いた。

 もう何十年も昔に訪れた国で、一度だけ見た事があった。
 圧倒される大きさと、遥か彼方にある水平線。
 空と海の境を水平線と呼ぶのだと、教えてくれたのは誰だったろう。
 もう、思い出せない程、遠い昔。
 懐かしいなぁ、と素直に思える。
 ただひたすら逃げ続けるだけの日々。
 足跡を残さぬように、誰も自分を追って来られぬように。
 そんな環境にあったあの頃を懐かしく思えるのは、今ここにある生活が満ち足りているからに他ならない。
 少し前までは考えられなかった穏やかな日々。
 この環境を与えてくれた、この家の主に感謝し、その息子である少年――絵を眺めながら、目にしたことの無い海に思いを馳せている親友をとても愛しく思う。
(お前が側にいてくれたら、俺は何も怖くないんだ)
 人を信じる、という事を何百年という時間の先に置き忘れてきた自分の頑なな心を、その笑顔で容易くこじ開けた少年。
 素直さの中に少年らしいやんちゃさと少しばかりの気の強さを抱え、自分を同じ世代だと信じて疑わないこの少年の側はとても居心地が良くて。
 昔の自分は全て幻だったのではないかと錯覚さえしてしまう程の日常。

 ―――でも。
 これが、これこそが幻だったら?
 かつての悪夢が自らを苛む時、その悪夢に目を覚ました時は、全てが幻だったのではないかと思う事もある。部屋の中を見渡し、ここが安全な場所だと分かっていても、尚。
 暖かい毛布にくるまれたようなここの生活が当たり前になっても、どこかで怯える自分がいる事は否定しようもない。
 それを癒してくれるのは、次の日の朝、自分に向けられる少年の笑顔と、ここに住む人達の当たり前の挨拶。
「おはよう!」
 みんながそう言ってくれるだけで、今が幻じゃないと実感できる。

 大切にしたい。失いたくない。
 今の、この時間を。

「ねぇ、テッドはどんな風に思った?海を見た時」
 何も疑わない少年。
 今ある幸せが、壊れてしまう事など想像をした事もないだろう少年。
 ずっとこのままで。
 何も、起こらないで。
 それだけを願って、無意識に右手を握りしめた。
「テッド?」
 黙ったままだった自分に向けられる、心配そうな瞳。
「僕、何か悪い事言った?」
「ん?全然、何でもないって。おまえが無理矢理起こすから、まだ頭がぼーっとしてるだけだって。気にするなよ」
「……そんなに眠かったの?ごめん」
 ごめんなさい、と。その言葉がそのまま顔に書いてあるようで、思わず吹き出してしまう。
「あははは、いいって。嬉しかったんだろ?」
「えーと、うん。へへへ」
 つられたように笑って、その後思い出したようにポケットに手をやった。
「そうだ、忘れてた。えっと――…あ、あった。はい」
 ゴソゴソと何かを探していた少年が、見つけた物をテッドに差し出す。
「何だよ、これ」
「テッドにお土産。父さんから」
「テオ様が、俺に……?」
 手渡されたのは、小さいが、今少年が手にしているのと同じ海の絵が閉じこめられた、手のひらに納まる大きさの丸いガラス。
「幸せになれるお守りなんだって。部屋に置いておきなさい、って言ってたよ」
(テオ様――)
 優しい思いやりに、思わずじわりと浮かんできそうになる何かを堪えるように、テッドはそれをギュッと握りしめた。
「テッド、嬉しい?」
「うん……凄く、嬉しいよ…俺……」
「へへへ、良かった」
 テッドの頷いた顔を見て、少年は本当に嬉しそうに笑う。

『家に来なさい』
『何があったかは聞かないでおこう。だが、君も幸せになるんだ。そうなる努力をしなくちゃいけない。いいな?』

 ボロボロの服を着て、この街の片隅に座り込んでいた自分を拾ってくれた時の主の言葉を思い出す。
「幸せに、か……」
「テッド、幸せじゃないの?」
 呟いた言葉に反応して、僅かに顔を曇らせる少年に、テッドは笑った。
「そんな訳ないだろ?幸せだよ、俺は、今。すごくな」
「良かった!」
 先程と同じ言葉で、同じ笑顔で笑う少年。

 少年が、成長しない自分に気付くのはいつだろう。
 その時、一体どんな顔を見せるのだろうか。
 今のまま、変わらない笑顔で笑ってくれるのだろうか。
 ――分からない。
 けれど、出来るなら今のまま、何も変わらないままで。

「いつかさ、一緒に見に行けたらいいな」
「え?」
「海。一緒に見たいよな」
「うん!約束しよう、テッド」
 指切り。
 そう言って手を出す少年の指に自らのを絡ませ、テッドは強く願った。
(どうか、今のまま、何も起こりませんように……)

 穏やかな時間は、静かに流れていく。
 夕暮れを迎えるマクドール家に、グレミオお手製シチューの香りが漂っていた。


 海の絵は少年の部屋の壁に飾られ、小さなお守りのガラスは、テッドの部屋の窓辺に置かれた。
 陽の光を浴びて輝くそれは、何年経ってもその輝きを失わなかった。
 テッドの想い、そのままに。




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