夜の静寂に、自分の息遣いだけが響く。 普段なら全く気にならないものなのに、周りが静まりかえっているおかげで、やたら煩わしく思えてしまう。 「…眠れない……」 枕を横にしていた香穂子はもぞりと動いて仰向けになると、闇に向かって呟いた。 ちっとも眠気が差してこない。 眠くはないけれど、とりあえず目を閉じてれば寝られるかも、と思って下ろしていた瞼。けれど、全く効果は現れないようだ。閉じていた瞼を上げるのも、苦手な朝と違って何の抵抗もない。 手を伸ばしてすぐ届く範囲に置いてある、二つ折りの携帯を取り上げて、開いた。その際の無機質な音が、やはりかなり大きい音に思える。 暗い部屋の中で、明るいディスプレイが目に少し痛い。目を幾度かしばたかせ、時間を確認した。 「……二時過ぎ、か」 呟いて、身体を起こした。このままではどうせ暫く眠れそうにない。 そう判断して、ベッドを降り、パジャマの上にカーディガンを羽織って部屋を出た。 キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。 牛乳のパックを取り出し、カップに注ぐ。レンジに入れて温めで三分。 レンジが指示通りに動いている間、居間に戻ってサイドボードの扉を開ける。滅多に出さないブランデーの瓶を取り出して、ダイニングテーブルの上に置いた。椅子に座って、見るとはなしに瓶のラベルを眺める。結構前の貰い物だ。割といいお酒だと聞いてはいるけど、こんな時くらいしか使われる事はない。 「……アルコール度、40%…CAMUS XO…」 香穂子が一人意味なく呟いたところで、電子レンジの作業は終わったらしい。軽快な電子音が流れた。 スリッパの音をパタパタと鳴らしてキッチンに舞い戻り、レンジの扉を開けて中のカップを取り出す。 取っ手が持てなくなる程の熱さではない。表面に膜が張っている感じでもない。ちょうどいい温度になっているようだ。 「よし」 少し嬉しそうに頬を綻ばせ、こぼさないように少し慎重な足取りで移動した香穂子は、ダイニングテーブルにそれを置き、再び椅子に座った。 それから、先程持ってきておいたブランデーの蓋を開け、とぽとぽ、と少量の液体をミルクに注ぐ。途端、ミルクとブランデーの混じり合った甘い香りが湯気となって、鼻孔を刺激した。 「いっただっきまーす」 そう声に出し、香穂子は両手に持ったカップに息を吹きかけて心持ち冷ましてから、ゆっくりと一口目を喉に流し込んだ。 じんわりと身体に染み通っていく温度と、柔らかな香り。 ほう、と溜息にも似た満足げな吐息を漏らしたところで、壁にかかっている時計を見遣った。 当たり前だが、まだほんの少しの時間しか、経っていない。 「……いいんだけど、別に」 一人言い訳のように呟いて、一口、また一口とブランデー入りのホットミルクを飲み下す。 幹線道路の前というわけでもなし、元が閑静な住宅街の一角だ。こんな時間ともなれば、外からも殆ど物音など聞こえてこない。 ただでさえ部屋には一人きり。物音といえば、香穂子自身が立てる僅かな音のみ。 「……テレビでも見ようかな」 思い立ってソファーの方まで歩いていき、テレビのリモコンを手にするも。 「……やっぱ、いいや」 なんとなくその気になれず、元あった場所にそのまま戻す。いずれにせよこんな時間じゃ、ロクな番組はやってないだろう。 一人で過ごす時間が多いと、独り言が増える、って聞いた事あるけど。 香穂子がカップを手にしたままぼんやりと思う。 ソファーに深く沈み込んで、なんとなく両足なんかもソファーの上に上げてしまって。いわゆる、体育座りのような格好だ。 温かいミルクとアルコールのおかげで、身体はほこほこと温まっている。 けれど。 「早く、帰ってきてよー……」 カップをテーブルにことりと置くと、香穂子はそのままソファーにごろん、と横になった。幾つかのクッションを手元に引き寄せ、枕代わりにする。 何か、音楽をかけてもいい。 とりあえずテレビをつけてもいい。 そうすれば音は部屋に溢れ、きっとこんな風に人恋しい気分も、少しは薄れる。 そういえば、この間貰ってきたクライスラーの日本未発売CD、まだ聴いてなかった。 思い出して、どこに置いたっけ、と考えたが、途中でそれを放棄した。 今はヴァイオリンの音を聴く気には、なれなかった。きっと余計に、寂しくなる。 「……私らしくなさすぎ」 苦笑混じりに、また独り言。 さっきまで見ていた壁掛け時計はここからじゃ見えないから、テレビの下に鎮座している、ビデオの時計に目を遣る。ごろごろしている内に、三時近くになっていた。 「相変わらず、レコーディング、長引いてるなあ……」 『今日も遅くなると思うから、先に寝ていてくれ』 用件だけのそっけないメールが届いたのは夕方。 最近は仕事が忙しくて、いつもこんな感じだった。文面から見ても、疲れてるんだろうなあ、と思う。下手すると泊まり込みで帰ってこないこともしばしば。ここ数日は、ずっとすれ違いの生活で、まともに顔を合わせてすらいない。 香穂子自身も、暇なわけでは決してない。 互いに演奏者としてあちらこちらを飛び回っているから、会えない時は一ヶ月以上、顔を合わせないこともあった。 そんな生活にも慣れっこといえば、勿論そうなんだけど。 人恋しい夜は、少しだけ、寂しい。 ううん、違うな。香穂子は頭の中で訂正する。 人、じゃない。一人のみに限定して、だ。 もっと言えば、彼の人肌が、恋しい。 「浮気してやるぞ」 考えたこともないくせに、何となくそんな台詞を呟いてから、思い切ったように起き上がった。 こうしていても仕方ない。遅くなると言った時は、本当に遅くなる。何時に帰ってくるか分からない相手を待って睡眠時間を減らしてしまえば、今度は自分の仕事に影響が出てしまう。香穂子自身、明日は、近々あるリサイタルの打合せが入っていた。 「身体もあったまったし、アルコール入れたし。……まあなんとか…寝られるかな」 横になってみないと、分かんないけど。 呟いて、カップを手に、キッチンに向かった。 その時、表に車が止まる気配。 それを察した香穂子は慌てて玄関に走り、ドアを開けた。 物凄い勢いで開いたドアの音に、門扉を閉めていた人物は驚いて振り返った。 「香穂子」 相手の驚いた顔を見て、自分がどれだけの勢いでドアを開けたのか悟ったのだろう。 「あ、あはは、えーと」 バツが悪そうな表情で照れ笑いする香穂子を見て、帰宅した人物――月森蓮は、仕方なさそうに微笑みながらポーチを歩き、玄関まで辿り着いた。 「夜中にそんな大きな音を立てては近所迷惑だろう。苦情が来る」 「…確かに。申し訳ない」 蓮は、素直に謝る香穂子の肩を抱いて、中に入るよう促し。自らの手でドアを閉めて鍵をかけると、サンダルを履いたまま立っていた香穂子に笑んだ。 「ただいま」 「お帰り」 まだヴァイオリンケースを持ったままの蓮の身体に、香穂子が腕を回す。抱き付かれたまま、床の上にそっとケースを置くと、蓮も香穂子の身体を両腕の中に柔らかく包み込んだ。 こうして体温を感じることも久しぶりだ。 蓮がそう思いながら、香穂子の長い髪をそっと梳いた。 「どうしたんだ?遅くなるから先に寝ていてくれと言っておいたのに」 「……自分のダンナを待ってちゃいけないわけ?」 「いや、勿論そういうわけじゃないが…」 君の仕事に差し支えてはいけないから、と言葉を紡ぐ蓮に、香穂子はありったけの力で抱き付いた。否、締め上げたと言った方がいいかもしれない。案の定、微かではあるが、うっ、という呻き声が漏れた。大げさなほどではなくとも、それなりには苦しそうだ。 「香穂子…痛いんだが」 「可愛い奥さん放って仕事ばっかしてるからよ、罰だと思いなさい」 「……いや、仕事のことなら、君だってかなり……」 言いかけるが、更に強い力で締め上げられ(抱き付かれているというよりプロレス技をかけられているのに近い)、蓮は言いかけていた台詞を中断して、力無い声で抗議した。 「…香穂子、本当に結構苦しい」 「私だってね」 腕の力が緩むと同時に聞こえる小さな声。元々頭の位置にかなりの差がある上、顔は胸に押しつけられている。声がくぐもって、聞こえにくい。微かな声は、やっと耳に届く程度だった。 締め上げられていた所為で少し乱れた息を、幾度か深呼吸して整えていた蓮の耳に、やはり小さな囁きが聞こえた。 「…私だって、たまには眠れない夜もあるの」 「何か、あったのか?」 優しい声で、少し心配そうに尋ねられ、香穂子は完全にその身を蓮に預けた。 「……何もない」 「それなら、いいんだが…」 「何もないけど、蓮が恋しかった」 香穂子の腕が伸びて、蓮の後頭部に回る。指で、髪を梳く。 「蓮が恋しくて、眠れなかった」 微弱な電流を流されているような、柔らかな刺激。耳を打つ、香穂子の甘い言葉。 何年経っても、慣れることがない。 心の奥にあるとても敏感な何かに、直接触れられるような感覚。ざわり、と肌が粟立つ。何故こうまで、彼女の言葉は、声は。――存在は。 「仕事忙しくて大変なのは分かってるけど、たまには」 香穂子の言葉は、途中で遮られた。 最初は優しく、触れるだけの接吻。香穂子の言葉を飲み込むように、甘く柔らかな感触を啄むように、幾度も口唇を重ねる。 「……俺は決して、君を二の次にしているわけではないから」 「分かってるよ、そんなこと」 至近距離で、微笑み合って。 もう一度、少し長めな接吻を交わし。名残惜しげに下唇の上を舌で軽くなぞってから、蓮は香穂子の身体を解放した。 玄関の床に置いていたヴァイオリンケースを持ち上げて、改めてフローリングの床の上に置き、靴を脱ぐ。サンダル履きだった香穂子は、先に家の中に上がっていた。 手には、ミルクが入っていたカップを持って。 「それは?」 「キッチンに片付けに行こうとしたところで、蓮が帰ってくる音がしたから」 慌てて来たから持ってきちゃって、鍵開ける時に棚の上に置いといたの。 あはは、と笑った香穂子に、蓮はそうか、と微笑んだ。 「明日の仕事は、朝から?」 「11時の約束」 居間に歩いて行きすがら、翌日の予定確認。 「蓮は?」 「とりあえずは一段落したから。俺は明日は家にいると思う。急な用件が入らなければ、だが」 「おーやっとか、お疲れー!そこら辺の話は、また明日にでもゆっくり聞かせてよね。私も多分、夕飯までには帰ってこられると思うから」 とりあえずお風呂湧かしてくる、と背を向けた香穂子の腕を、蓮は掴まえた。なに?と香穂子が振り返る。 「夕方終わる頃、迎えに行くから。どこかでゆっくり食事でもしよう」 「賛成。久しぶりのデートだね」 嬉しそうに笑う香穂子を見ているだけで、ここ連日に溜まっていた疲れが癒されるのを感じる。紛れもなく香穂子は、蓮にとって一番の疲労回復薬だ。 仕事が立て込んでいる時は、香穂子と会えない時間も多い。 完璧主義の蓮は、根を詰める事も多かった。一曲録るのに、納得いくまで何日もかけることも珍しくない。睡眠時間を削って、ひたすら演奏に打ち込むこともざらだ。しかし、人間の身体はある程度の睡眠を必要しているのだから、それを無理に削っていけば、当然の如く疲れは溜まっていく。 しかしどうしても睡眠に費やす時間が惜しく、最小限の休息しか取らないことが多い。結果、少しでも疲労の緩和になればと、ドリンク剤などに頼ることになるのだが、やはりそんなものは所詮、気休めにしかならないのだ。なんとか乗り切ることは出来たが、自分の招いたこととはいえ、いいかげん疲れもピークに達していた。 それなのに、香穂子の笑顔を目にしただけで、こうだ。改めて、香穂子の存在の大きさを思い知る。 もう一度、腕の中に最愛の存在を引き寄せて、深く息を吐いた。 それを耳にした香穂子は、疲れ切った蓮にさっきの仕打ちはさすがに外道だったかも、と少し反省した。 すれ違いの生活が続いて寂しかったのは、自分だけじゃないと分かっている。 自分を見た時の、心から安堵したような顔を目にしただけで、香穂子の機嫌は既に回復していた。 我ながら、ゲンキンだと思うけど。 そんなことを思いながら、出来る限りの優しい声で言った。 「本当にお疲れさま。さすがに疲れてるね。今日はもう寝た方がいいよ、お風呂湧かすから」 ぽんぽん、と優しく背中を叩かれた蓮は、いや、と首を振って、腕の中の香穂子を見下ろした。 「風呂は…後でいいから。それよりも、君のリクエストに応えさせて貰えないだろうか」 頬に指を滑らせながら紡がれた蓮の言葉に、香穂子の目が一瞬丸くなった。びっくりしたような表情は、だがすぐに、花のような笑みに変わった。 「相当お疲れなご様子なのに、無理は良くないよ?」 「大切な妻に、恋しくて眠れなかった、などという台詞を言われて、そのまま放っておくような、不甲斐ない夫ではないつもりなんだが。それに」 「それに?」 「君の笑顔が見られたから、疲れは大分取れた」 「ふふーん、殺し文句だね。よろめいちゃいそう」 言って、香穂子は蓮の首に両腕を回した。 「待っていてくれて、ありがとう」 「どういたしまして」 にっこりと微笑み合った後、目を瞑り。軽く額を合わせた状態で、囁きを交わした。 「上、行こうか」 「そうしよう」 眠れない夜にはホットミルクとブランデー。 出来るなら、何よりも愛しい相手との、甘い時間。 別の意味で眠れなくなりそうな、二人の夜の、こんな一コマ。 香穂子は翌日打合せに遅刻したに一票。久々ですし、絶対たm(以下自主規制)。 えー。未来話です。結婚後です。二人とも一応奏者として仕事してることになってるらしいです(らしいってなんだ)。二十代後半くらいを想定。いつものことですが色々捏造ぶっこいてすみません。彼らは全室完全防音な月森家で同居してるような気がしますが、他の家族は寝てただけですきっと。防音だから、多少煩くしても分からないのよ、多分。<うーわいいかげん 【 眠れない夜 / La corda d'oro 】 |