さて、まずはどうしようか――? 香穂子は、音楽室をぐるりと見渡しながら考えていた。 (何はともあれ、練習しなきゃ話にならないんだろうけど……) と、不意に目に入ってきた後ろ姿。 (あれ?) 「何してるの?」 「ああ、…いや、別に、なんでもないんだ。…すまないが、気にしないでくれ」 香穂子の問いに焦ったように答えたのは、昼休み、三年生に言い掛かりを付けられていた(としか香穂子には見えなかった)、音楽科の生徒だ。 (えーと、確か名前言ってたけどな、何だっけ……) 名前を思い出そうとして少し考え込んだ香穂子の顔を見て、その生徒――月森蓮は、不機嫌そうに眉を寄せて言った。 「それとも…俺が何かおかしなことをしていたとでも言いたいのか?」 「いや、別に?」 単にぼうっと立ってるし何してるのかなって思っただけなんだけど、どうやらファータを見て困惑していたようだ。だけど参加者には見えるって話だし、自分だってあれだけ取り乱したんだから、他の人が同じであっても別におかしくはない。 香穂子がそう思いながら否定すると、月森はクールな表情に戻って、ふい、と横を向いた。 「ならいいんだ。悪いが用がないなら話しかけないでくれないか」 香穂子はそれを見て。 「……うわー性格悪」 思わず、呟いていた。それを聞きつけた月森が目を細め、睨むようにして香穂子を見下ろす。 「…今の言葉は、俺に対してのことか?」 「他に思い当たる人、この場にはいないんじゃない?」 軽く周りを見渡しながら飄々と言い放った香穂子に、月森は一瞬絶句して。 「……失礼する!」 くるりと背を向け、去っていこうとした。が。その腕を、香穂子はしっかりと掴んだ。 「ちょっと待ってよ、えーと、何だっけ名前。さっき昼休み聞いたのにな、思い出せないや。名前教えて」 傍若無人とでも言うのが当てはまるだろう言動に、月森は不機嫌な表情を隠さず、それでも律儀に名乗った。 「…月森蓮だ」 「ああ、そうだそうだ、月森くん」 「離してくれないか」 腕に力を入れながらそう主張しても、香穂子の手はしっかりと月森の袖を捕まえていた。さすがに無理矢理に払いのけるような真似は出来ないのだろう。困惑したように視線を向けると。 「あのね、教えて欲しいことがあるの!」 そう、香穂子は宣った。 「……は?」 「ヴァイオリンの正しい持ち方と、楽譜の読み方!教えて!」 「…それは一体、どういうことだろうか」 余りに突然過ぎる要請に、先程までの怒りを忘れて聞き返した月森の腕を、香穂子は漸く放し。 「これ、貰ったは良いけど、分かんない記号ばっかりで困ったなあって思ってたのね。月森くん、なんか上手いみたいだから!お願い、基本的なことだけで良いんだ。後は自分で何とかするから!」 パン、と手を叩いて拝む様子を、瞬きを繰り返しながら見ていた月森は、彼女の足元にヴァイオリンケースがあることに、初めて気が付いた。 しかし、ヴァイオリンを持っていながら、持ち方も知らない、楽譜も読めないとは一体どういう事なのか。 「君は、一体?」 「あ、そうか、名乗ってなかったね。私、普通科からコンクールに参加することになった日野香穂子。大変申し訳ないのですが、ほんの少し、手を貸していただけないでしょうか」 他にヴァイオリン弾ける知り合いいないの、と再び拝まれて。月森は、先程と同じ様に瞳に険を宿し、聞いた。 「……まさかとは思うが、君は素人だということか?」 「その通りです」 「ヴァイオリンは、扱い方も知らない素人に弾けるような楽器じゃない。一朝一夕で身に付く物でもない。そんな君が、コンクールに出場すると?」 「そういう事ですね」 「辞退した方がいい」 数回の言葉の遣り取りをしてから、月森はキッパリと断じた。香穂子が月森を睨め上げる。 「……つまり、教えてくれるつもりは全くないってこと?」 「辞退するつもりが、全くないという事か?」 自分と同じ様に繰り返された言葉に、香穂子はかちんと来たようで。 「ケチ、性悪、陰険、冷血」 絶句した月森の表情に朱が差す。これで怒るな、と言う方が無理だろう。そんな月森の表情の変化を見た香穂子は、ハッと気付いたように。今の勢いとは打って変わって、しゅん、とうなだれた。 「…ごめん、よく考えてみなくても、私が言ってる事って迷惑極まりないな。知った顔見て、つい調子に乗ったかも。勝手な事言って、ごめん。悪口も言ってごめん。月森くんだって自分の準備とかあるよね」 そう言った後、殊勝な言葉に返事を返せず黙ったままで自分を見つめていた月森に、笑顔を見せた。 「ま、なんとかなるよ。これ魔法のヴァイオリンとかでさ、音だけはなんとか出せるから。ここに来れば他にもヴァイオリン弾いてる人とかいるし!良く見て真似してみるとしよう。楽譜は…んー、帰りに楽器屋にでも行って聞けば教えてくれるかなー…。ま、いいや!」 色々ごめんね!と自分のヴァイオリンケースを取り上げ、背を向けようとした香穂子に、月森は声を掛けた。 「君はそれでも参加すると言うんだな」 「勿論。参加することになったのは自分の意志じゃなかったから、本当は出るつもりなんかなかった。だけど、一度やると決めたからには、そう簡単に投げ出すのは趣味じゃないんだ。まだ私は何もしてない。止めることなんていつだって出来る。やってみてどうしても駄目だったら、その時に考えればいいことだし」 揺るぎない意志を持つ、強い輝きを放つ瞳。月森は今まで見たことのない物を見るような目で、香穂子をじっと見つめながら、分からない、といったように聞いた。 「駄目だったら…か。さっきも言ったが、ヴァイオリンはそう簡単に習得出来るような楽器ではない。恥をかくとは思わないのか?」 その言葉に、香穂子は朗らかに笑い。 「恥?そんなもんが何だって言うの?自分が納得してることならそれで別にいいじゃない。人にあれこれ言われてへこむような柔な神経してないし、一度決めたことを簡単に投げ出す方が私にとってはよっぽど恥だよ。それにね」 「それに?」 「私、今まで音楽なんて学校で習うとか流行の歌をCDで聴くとかって程度だったけど、君が昼休みに弾いたの聴いて、本当に綺麗な音だな、って思ったんだよ。リリにこれを貰って少しだけ音を出してみた時、自分でも弾いてみたいと思った。ヴァイオリンの音が綺麗だなって思ったよ。こんなことでもなければきっと一生ヴァイオリンなんかに触れる機会はなかったけど、どうせだったら、ちゃんと弾けるようになりたい。だから、そのために出来ることはするよ」 片手でガッツポーズを決めて笑う香穂子が、月森にはひどく眩しく感じられた。他人の意見に左右されず、他人の価値観を物ともせず、自分の意志のみが自らの道を決める、と彼女は言い切った。 月森は仕方なさそうな表情で。しかし、微かながら笑みを作って。 「残念だが、今日はこれからレッスンがあるんだ。でも、明日なら時間が取れると思う。放課後、練習室を取っておこう。そう長い時間は割けないが……」 「え、ほんと?いいの!?」 嬉しそうに顔を輝かせる香穂子に、月森は、だが、と言葉を繋ぐ。 「その代わり、一つ条件がある」 「条件?」 ああ、と月森は続けた。 「さっき君は、それを魔法のヴァイオリンだと言った。つまり、素人でも音が出せる楽器を、君は持っているという事なんだな?」 「うん、リリに貰ったの。これで出ろって」 そうか、と少し考えるように腕を組んだ月森は、少しして、厳しくも見える視線を香穂子に向けた。 「俺達ヴァイオリン専攻の者は皆、長い時間を掛けて技術を会得してきた。だが君は、それを何の苦労もなしに手に入れた」 「否定はしない」 が、香穂子は、真っ直ぐにそんな月森の視線を受け止めた。その潔さに、月森は眩しさを感じて、ほんの僅かではあるが頬に笑みをのせる。そんな表情の変化に、少し驚いたように目を見開いた香穂子に、月森は言った。 「君が本当にヴァイオリンを弾きたいと思うなら、許す限りの時間を使って練習すること。そのヴァイオリンに頼るのではなく、君だけの実力で弾けるようになるための、最大限の努力をして欲しい。これが条件だ」 「なんだ、そんなこと?」 当然じゃない、と不敵に笑う香穂子に。 「君なら、そう言うんじゃないかと、思った」 月森も、微笑んで見せた。 「月森くん、ありがとう。これから宜しくね。それと、明日も宜しく」 「ああ。こちらこそ…宜しく」 手を差し出した香穂子に、躊躇いながらも月森も手を出して。二人は軽く握手をした。 最初から超ネタばらし香穂子ちゃん。いいのか、こんなコルダ話。 けど、普通いきなり楽譜渡されて弾けないだろ、やっぱ先生は必要だ。ということで、リリと話す以前に顔を知っていた唯一の音楽科生徒である月森に先生役を任命。 【 first impression? −Ver.月森蓮− / La corda d'oro 】 |