「ブッラボー!」 いきなりの声と拍手の音に、思わず目を見開いて上を見上げた。 「…香穂子」 「ビックリした?」 「あ、ああ…まあ……」 こくり、と頷いた月森は、悪戯が成功した子供の様な目で自分を見下ろしている香穂子に聞いた。 「ずっと、そこにいたのか?」 「うん。ずーっと。『サパテアード』に、『ロマンス第一番』。で、今の『ツィガーヌ』。次辺りパガニーニ来るかな、と思ったんだけど」 あたり?と香穂子は聞いた。 学内コンクールの各セレクションで演奏した曲を順にさらっていたのだから、当然と言えば当然の指摘だ。そう思いながら、月森は、軽く首を縦に振り。それを見た香穂子は、半階分上になっている空間に設えられた手摺に組んだ腕を預け、その上に顎を乗せた状態で、くすりと笑った。 「いやー、さすがに上手いね。綺麗に音が響く響くー。夏の暑さも吹っ飛ぶわ」 「そんな所では日陰もないだろうに。君は本当に物好きだな」 最初の驚きから幾分経ったこともあり、月森にも余裕が出来たのだろう。自分は日陰となっている場所にいるからか、呆れた様に言って、固まったままだった腕を下ろした。 確かに暑い。夏なのだから当たり前と言えばそうなのだが、こんな暑い日に、好んで屋上になど出てくる者が自分以外にいるとは思ってもみなかった。 「物好き結構。人の事言えないくせに」 香穂子の指摘に一瞬言葉を詰まらせて。少し顔を逸らしながら、月森はどこか躊躇いがちに口にした。 「冷房は効いているが…閉め切った練習室よりも、風の通る屋上の方が、気分良く弾ける気がして……」 「まーた誰かに嫌味でも言われた?」 「……別に、気にしている訳じゃない」 努めて平静を装っているものの、瞳は正直だ。隠しきれない、不機嫌そうな色。 (嘘ばっかり。しっかり気にしてるじゃないよ) 音に僅かな乱れを感じ取ったからこそ、香穂子は次に来るだろう曲を分かっていながら、敢えて声を掛けたのだから。 「相変わらず月森サマは繊細でいらっしゃること」 溜息混じりの香穂子の言葉を聞き、月森の眉間に皺が寄る。 「……そういう言い方はやめてくれないか」 「じゃ、どんな言い方が好み? 私と違って神経が細やかだから、些細なことも気になるのね、とか? それとも、蓮くん可哀想、香穂子が慰めてあげるね!って抱き締めてあげたら満足?」 ニヤリと笑いながら聞いた香穂子に、月森は脱力した様に嘆息した。 「……香穂子」 すると、香穂子はくるりと背を向け。何やら手荷物をごそごそと漁っている様子だ。微かな音が聞こえてきて、月森は(何だ?)とばかりに首を傾げた。 直後、再び顔を出した香穂子が手に握ったものを、月森に向かって、「はい」と落とす。 ヴァイオリンと弓を持ったままであったが故に慌てたものの、何とかそれを手のひらに収める事に成功した月森は、手の中にころん、と転がっている小さな包みに瞠目した。 「……これは」 「おすそわけ。香穂子さんの愛情の証ってことで」 それ、すっごい甘いから。 反応を試すかのようにニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている香穂子をちらりと見遣った後。 「……どう判断するべきなのか、迷うんだが」 「やだな。愛情だって言ってるじゃない、素直に受け取んなさいって」 「君のその顔を見ている限り、額面通りに受け取ることが出来ない」 憮然とした表情の月森に、香穂子は吹き出した。 「屈折しちゃって、やあねえ」 「学習した、と言って欲しい」 未だに掌の中の飴玉をどうするべきか決めかねていた月森に、香穂子は、ふ、と小さく微笑んだ。それは、先程までの人の悪い笑みではなく。どこか、柔らかい表情。 「甘いモンってね、頭の働き良くするんだよ。知ってる?」 「聞いた事くらいなら、あるが……」 「気にする価値もない程くだらないってのが一応は分かってるなら、そんな事に気を取られるバカな脳味噌に活力与えてやんな」 表情は柔らかいにも関わらず、紡がれる言葉はあまりにもストレートできつい。バカ、とハッキリ言われるのは、基本的に気分のいいものではないが、香穂子の口から聞くと、それが言葉通りのものを示すだけではないと思えてしまうのは、欲目だろうか。そのせいもあってか、不快感が湧き上がることはない。しかし、言いたい放題の香穂子の台詞も、あながち自覚がないことではないため、口の端に苦笑が浮かんだ。 「……ひどい、言われ様だな」 少しの間、じっと飴玉を見つめ。香穂子の視線を感じながら、ぺり、と包み紙を剥いて口の中に放り込む。 言われた通り、確かにその飴玉はとても甘く。口の中全体に、過剰な程の甘さが広がった。それほど甘い物が得意ではない月森が思わず顔を顰めると、香穂子がしたりとばかりに声を上げて笑う。 「甘いでしょ」 「……砂糖の味しかしない」 だってそれ、砂糖煮詰めただけの飴だもん。と変わらず笑いながら。 「たまには、甘いもの補給することも必要でしょ」 頭、柔らかくなるよ? からかうような口調で告げる香穂子の瞳には、優しい色が見え隠れしている。 「なんでも真面目に捉えて真剣に考える所、蓮の美点の一つだとは思うけど。たまには私を見習ってみれば?」 「理不尽な言い掛かりを付けてきた相手を完膚無きまでに言い負かす所をか?」 お返し、とばかりに、しれっと宣われた台詞に、香穂子は思わず吹き出して。それもそうだけど、と頷いた。 「結局はさ、嫌味だ何だ言ってくる連中ってのは、蓮を羨ましがってるんだよ。御両親から受け継いだ才能とか、音楽に浸りきれる環境とか。更に付け加えるなら、その至極絵になる容姿とか」 月森は(そんな立派なものじゃない)と、溜息を付いて首を振った。 「俺は、別に」 「意識してようとしてまいと、人からはそう見えるってこと。いいじゃない、堂々と胸張ってれば。て言うか、張りなさいよ。持って生まれた環境はともかく、今まで、『自分のやるべきことは最大限にやってきた』って自覚はあるんでしょ?」 初めて香穂子と会話した時のことを、思い出す。 あの時、月森は言った。ヴァイオリンの扱い方、楽譜の読み方一つ知らなかった香穂子に、『そのヴァイオリンに頼るのではなく、君に出来る最大限の努力をして欲しい』と。 おそらく、香穂子は胸を張って言えるのだろう。自分に出来ることは、精一杯やってきた、と。だからこそ、彼女は人に何を言われようと、揺らがない。揺るぎない強い意志で、自らの道を歩んできたという、自覚を持っているのだ。 けれど。 月森にも、自分に出来る限りのことをしてきた、という自負くらい、ある。真摯に音楽に向き合い、それをどう表現するべきか、どう表現したいのか。常に自分と向き合い、音楽と、ヴァイオリンと向き合って、努力を重ねてきたという、自覚が。 上から自分を見下ろす香穂子は、至極鮮やかに微笑んでいた。 感じていた些細な苛立ちなど、全て吹き飛ばしてしまうくらいに。 喉を通っていく甘さが、身体全体に染み渡るような感覚すら、覚えてしまう。 一見して分かり易いものではないかもしれない。けれど、香穂子のくれるものは、確かに、甘い。 「ああ」 頷いた月森に、香穂子は、よし、と声に出して、破顔した。 「んじゃ、そろそろ練習室行きますか!」 暑いしもう限界。 そう言って、香穂子は背を向けた。その後ろ姿を見送った後、ヴァイオリンをケースに仕舞っていると、鞄とヴァイオリンケースを手に、香穂子が上から降りてきて、月森の手元を覗き込んだ。 「ふーん……」 その遠慮のない視線に、何か?と聞くと、香穂子は、んー、と小さく返事をする。 「この暑い中で弾いてた割に、汗で汚れたって感じでもないなあ、と」 そんなことか、と、月森は小さく笑って緩めた弓を定位置に戻すと、押さえを確認し、ケースを閉じた。 「もう拭いただけのことだ。さすがに、この気温の中で弾いて、汗をかかないわけがないだろう」 「普段なら、そんなことをすればヴァイオリンを傷める、とか目をつり上げて言いそうな蓮が、汗かくと分かっててこんなとこに来るもんなあ」 ぐ、と言葉に詰まった月森は、話の矛先を変えるべく、香穂子に声を掛けられた時からずっと疑問に思っていたことを聞いた。 「……そういう君こそ、何故、こんな所に」 「私?六時間目、物理だったのよね〜」 明後日の方角を見ながらでたらめなメロディを口ずさむ香穂子に、月森は呆れた様な視線を向けた。 「サボりか」 「自主休講、と言ってちょうだい」 「同じ事だろう」 「そうとも言う」 「全く……。期末考査が終わったからといって油断していると、後で後悔することになると思うが?」 「はいはい、蓮くんはどこまでも真面目でらっしゃるから」 「君が不真面目なだけだろう」 「ああ言えばこう言う!」 「お互い様だ」 二人は、途切れることなくそんな会話を交わしながら、ドアを開け、屋上を後にした。 うだる様な暑さと共に、マイナスの感情を、全て其処に置き去りにして。 con amoreというのは、愛情を持って、という意味。月森の話はこのまま楽語タイトルで行くのだろうか…。飴玉のくだりは、数年前に書いた未発表某J系話からの流用。へたれ月森がものごっつ好きなので、ついついこんな話に…!れんれんファンには大変申し訳なく。 【 con amore / La corda d'oro 】 |