「すっかり風が涼しくなったわね」 取り込んだ洗濯物を丁寧に畳みながら、ふと漏らした彼女の言葉に、彼は頷いた。 「そうだね」 ほんの数週間前は暑くて暑くて、夜も寝苦しかったのに。ここ最近、明け方などは肌寒く感じることも多く、早々に一枚上掛けを追加した。 「今年は、秋が来るのが早いね」 西に傾き掛けた陽が窓から差し込んでいる。 薄い朱を流し込んだような色に変わりつつある、秋独特の空気を含んだ高い空。漂う雲も、同じ様な色を宿しつつ、ゆっくりと気持ちよさそうに流れていく。 その中を走る銀色の機体と軌跡を追って作られる白い筋を見て、彼はどこか遠くに思いを馳せるような表情で微笑んだ。 「もう着いた頃かな」 + + + 彼は、元々そういった事に頓着する質ではなかった。 その上、外見年齢が何十年経っても変わらないと来れば、それを示すのは単なる数字だけの問題で。他の人間に言われでもすれば『ああ、そうだったか』と思い出すが、そうじゃなければ綺麗サッパリ忘れていることもある。彼にとっては、その程度の認識なのだ。 よって、普段の日と全く変わらない一日だったのだ。 その日、冷蔵庫を開け、食糧が尽きている事に気付き。財布を手に、買い物に出ようと玄関のドアを開けるまでは、の話だが。 「……どうしてこんな所に、いや、どうして、こんな所で」 暫くの間、下を向いて『それ』を凝視していた彼は、やがて黒の革手袋に包まれた右手でこめかみを押さえた。 「……全く」 一つ溜息を吐き出した後、片方の脚を『それ』に伸ばす。――いや、伸ばすと言うか――もっと分かりやすく端的に言えば――。 『それ』が打ちっ放しコンクリートの床にごろりと転がって、ゴツンと派手な音を立てた。 「…ってぇなっ!何すんだよ!」 パチリと目を開け、ぶつけた側頭部をさすりつつ勢い良く起き上がった『それ』に、彼は冷ややかな視線を送った。 「どうしてこんな所で寝てるんだ。ジェット」 「それより何だよ、おまえ今、俺を蹴飛ばしただろう!」 痛えじゃねえか!と抗議しても、彼はどこ吹く風。 「それより、じゃない。こんな所で寝るな。妙な噂を立てられたらかなわん。第一」 そこまで言うと、皮肉げに頬を歪めて彼は笑った。 「それくらいで怪我するような身体じゃないだろう?」 ジェットは諸手を上げて「ハイハイ」と諦め半分の声を出してから、情けない音を立てた腹に手を持って行き、眉根を寄せて顔を上げた。 「なあ、腹減ったんだけど。何か食わしてくれよ、ハインリヒ」 買ってきた食糧が物凄い勢いでジェットの胃袋の中に納まっていく。 「……欠食児童だな、まるで」 「ほんふぁほふぉうぃっはうぇふぁあ」 「……口に物が入ってる時に喋るな」 呆れ半分の視線にもめげず、口の中の物をグラスの中の水と一緒に飲み下し、 「そんな事言ったってなあ、腹減るんだぜ、この距離飛んでくると」 そう言って、また料理にフォークを突き刺す。 ある意味その食べっぷりは見ていて爽快な程だが、ジェットが勢い良く食べれば食べるほど、それに反比例し、自らの食欲は減退していった。と言うよりも、見ているだけで腹が膨れたような気になってしまう。 ハインリヒは、いつもより大分少なめの所でフォークを置いた。 「何だよ、もう食わないのか?」 「ああ、俺はもういい。コーヒーを淹れてくる、待ってろ」 頷いて席を立ったハインリヒの後ろ姿を見送りながらも、ジェットは口に物を運ぶのを止めなかった。 「で?」 漸く満足したらしく、あらかたの皿を空にし終わったジェットが美味そうにコーヒーカップに口を付けているのを見て、ハインリヒが尋ねる。 「『で?』って、何がだよ?」 きょとん、と顔を見返すジェットに、ハインリヒは再び溜息を零した。 「わざわざ俺の作った美味くもないメシを食いに、アメリカからドイツまで飛んで来たのか?」 「あ、ああ、なんだ。それか」 「他に何があるってんだ」 「うーん……ないかもな」 納得したように幾度か首を縦に振るジェットに、ハインリヒは更に溜息を深くした。 「……あ、でも美味かったぜ、メシ。ご馳走さん」 いつだったかジョーがやっていたのを真似してか、手を合わせてぴょこん、と頭を下げるジェットに、ハインリヒは苦笑した。 「……ああ。それなら良かった」 胸ポケットから半分潰れかけた箱を取り出し、端を軽く叩いて出てきた煙草を口に銜える。火を点けて、紫煙吐き出すのを見つめていたジェットは、俺にも、と手を出す。 箱とライターをそのまま渡したハインリヒは、もう一度確認するように聞いた。 「それで?」 今度はさすがに聞き返すことのなかったジェットだが、それに答えることもせず。二人で食事するのがやっとだろう、小さなテーブルの上に片肘を付き、顎を乗せてから、はあ、と息を吐く。漂っていた煙がゆらりと流れ、ゆったりと天井へ昇っていく。 「本当に、分からないのか?」 「……ああ?」 当然だろう?とばかりに聞いたハインリヒに、今度はジェットが苦笑する番だった。 「今日が何日だか知ってるか?」 「今日か?」 背の方に掛けてあるカレンダーを振り返り、日付を確認する。 「十九日……あ、ああ、そうか」 その日付が示す意味を漸く理解したハインリヒは、すっかり忘れていたな、と眉を跳ね上げ、微かな笑みを浮かべた。 「そういう事だ。俺がこんだけ大荷物持ってるの見ても気付かないとは思わなかったぜ。フランソワーズの予想が大当たりだな」 ジェットは可笑しそうに笑って、床に置いてあったバッグを持ち上げ、中から大小の箱やら包みやらを取り出して、テーブルの上に並べ始めた。 『ハインリヒのことだから、絶対に忘れていると思うの。きっと、びっくりするわよ』 悪戯を企んでいる子供のように、楽しげに言ったフランソワーズの言葉を思い出しながら。 「これがジェロニモ、こっちが…ええと、ピュンマだったかな、で、こっちがジョーでこれがフランソワーズ。博士のは…これ。張大人のがこれで、おかしいな、グレートのが…ああ、あった。これだ。イワンからは伝言。『マタ一ツ歳ヲ取ッタネ。オメデトウ』ってさ」 その言葉に苦笑したハインリヒは、狭いテーブルの上に所狭しと並べられた色とりどりのプレゼントを感慨深げに眺め、その内の一つを手に取りながら聞いた。 「全員の所に寄ってきたのか?」 ジェットが大きく頷く。 「だから疲れたんだって。去年はたまたまみんな一緒だったけど、今年は見事バラバラだったからな。さすがに疲れたぜ。玄関まで来て限界になってさ、思わず座り込んじまったんだけど。で、次に気が付いたら床に転がされてたってわけだ」 悪戯小僧の顔で笑うジェットに、ハインリヒは、少々バツが悪そうに苦い笑みを零し。 「…そりゃ悪かったな。それに……」 「それに?」 ジェットが笑顔で先を促す。 「……嬉しいよ。後でみんなに電話する。……Danke」 照れ臭そうに俯き加減で言ったハインリヒに、ジェットは思い切り破顔した。 「Happy Birthday, Heinrich. 多分、おまえが電話しなくても、後でみんなの方からしてくると思うぜ?」 ハインリヒは、そうか、と薄く頬を緩ませた。 掛け替えのない仲間達が、一年に一度のこの日を祝ってくれる。 何の変哲もない一日が、特別に変わる瞬間だ。 この日が特別なのではない。この日が嬉しいのではない。 ――例え、世界中の人間全てからこの存在を否定されたとしても。 自分がこの世に生を受けたことを、心から喜び、祝ってくれる人が、確かにいる。それが嬉しいのだと、改めて思う。時に虚無に陥り、時に荒れる事もある自分に、その事を教えてくれる仲間達。 深い感謝の思いが、改めて沸き上がる。 「Danke sehr, ――― Ich danke euch fur Ihre Freundschaft」 低い声で早口に呟かれた言葉。 それはあまりにも低く、ジェットの耳には届かない。 何を言ったんだ?と聞き返すが、ハインリヒはいつもの表情――いや、それよりも数段和らいだ表情で、首を振った。 「いや、なんでもない」 ――君らの友情に感謝する―― それは、九月十九日。 Tシャツにジーンズ、ブルゾンといった変わった恰好の天使が、世界中の空を駆け巡った日の、昼下がりのこと。 【 九月十九日の天使 / サイボーグ009 】 |